恋心あふれでる

考えてみよう。

テゴマスの青春「ひとりじゃない」について考える。

 

 

エモい。

 

オタクが興奮した言葉で使いがちだけれど、あえて言おう、言わせてほしい。テゴマスの曲「ひとりじゃない」はエモい。

 

はじめに

 

私の熱のピークはこのブログを見直せばわかる通り約4年前。

時の流れの早さ、変わっていく周りの状況にとてつもない眩暈を覚えつつもそれと比例してアイドルへの熱は落ち着いていた。

もちろん、NEWSのコンサートは毎年行くしグッズも買うけれど、週刊誌の報道やラジオや歌番組はスルーする事も多くなった。

「まあ、こんなもんかな。」というのが私の感想である。人の怒りが3秒も保たないように、熱というのは時間と共に冷めていくものなのかもしれない。

 

それはふと思った、仕事中に歌が上手い人の落ち着く歌が聴きたくなった。それは私の中ではテゴマス一択で、早くiTunesにジャニーズも入らないかなぁと思いつつ、机の奥からCDプレイヤーを取り出してアルバムをセットしようとするが、ここで私はテゴマスのアルバムはそもそも1枚も持ってないことに気付く。

そこまで記憶が薄れていた事に若干ショックを受けつつ、今度は小型のDVDプレイヤーを引っ張り出して私は『テゴマスの青春』を入れたのだった。

 

2015年に発売された4作目、『青春』と呼ばれる本作は大人のテゴマスを魅せたいというテーマで作られた最高&最高のライブなのは頭の隅で感じていた。

それでも私は平熱の状態だったので「ヒカリ」から繋がる「青色ジュブナイル」「音色」を聴いたところで自分の要望通りの曲が聴けて満たされていた。

 

人間はなんて愚かなのだろう、忘れた頃に危険はやってくるのに、平和な時間が続くとこうも薄れていくものか。

 

次に来る「ひとりじゃない」という曲の恐ろしさを、私は時間と共に頭の隅に追いやりすっかり油断していたのだ。

 

 

 

「ひとりじゃない」

両耳から衝撃を感じた。今まで忘れていた記憶の扉が全部開いて、衝撃がそのまま身体中に広がって汗となり肌に滲む。仕事の手を止めて画面から目が離せない。なんだこれは、誰だこんな曲歌ってるのは、人間の2人組…?信じられない、天使じゃなかったか。何かわからぬままリピートした、途中若干イラついてる自分に気付く。あまりにも良すぎて怒りすら湧いてきた。理不尽だ。

 

忘れていた、本当に。時が経つと人はなんだって忘れる。いいか、全人類、聞いてくれ。

テゴマスの「ひとりじゃない」は最強なんだ。歌で世界を救うアニメがあったけどまさにそれ。生き残りたい、とひとりじゃないって語感も似てるし絶対そう。

 

「ひとりじゃない」が最高だというポイントは3つ。

 

  1. 始まっていないのに始まっている。
  2. 歌詞がとにかくエモい。
  3. 1人では完成しない歌である。

 

さあ、唐突に考えてみよう。今までのは長い長い前振りである。熱が戻ったここからが本筋。何故これほどまでに衝撃が走ったのか。

 

1.始まっていないのに始まっている

 

はじめに『青春』のセットリストを見てみると以下のような構成となっている。

まず「ヒカリ」は始まりの曲。青春の代名詞でもある大人なテゴマスのテーマ曲である、そこから一転、ステージが明るくなりテゴマス2人の姿が客席にはっきり映ると同時に、打って変わってアップテンポな曲が始まる。 

それが「蒼色ジュブナイル「音色」である。

ここで私たちはテゴマスに安心させられる。『なんだ、大人とは言ってたけど、やっぱり手越くんも増田くんもあの頃とは変わっていない可愛いままだ』と。

特に「音色」はテゴマスの2枚目のアルバム「テゴマスのあい」に収録されているように、テゴマスの子供らしさの残っているピーターパンのような曲だ。

だが、恐ろしいことに、ここからもう既に「ひとりじゃない」は始まっている。

 

「音色」の最後のハモリで2人が顔を見合わせる、アップテンポの曲がそのままのテンションで弾ける様に終わりを告げる、観客の拍手、の鳴り止まない間に再び2人は顔を見合わせる。

「ひとりじゃない」の1番最初のハモリが始まった瞬間、あの無邪気で可愛いらしい「あい」を歌ってた2人はもういない。パンッと空気が弾けたら、世界が切り替わりいつの間にか過去から未来に繋がる。

現れたのは紛れもなくあの頃とは違う大人なテゴマスでその瞬間に衝撃が走る。思わず立ち上がって思い切り拍手しそうになる。

 

もちろん曲は最高なのだが、それは全ての曲に共通することだ。なのに何故、「ひとりじゃない」だけにこんなに強い衝撃を覚えるのだろう。

その演出のキーポイントとなる曲が「音色」だと私は思う。

「あい」の代名詞とも言える「音色」。その曲調があんなに無邪気で、可愛らしく、のびのびとしているから「ひとりじゃない」に切り替わる第一声のハモリにメリハリが出る。それは聴いた瞬間、まるで一瞬で世界が切り替わったように錯覚する。そして人は考える間も無く大人のテゴマスを見た感動と未来に来た衝撃、そして感謝に身を任せて泣くことしか出来なくなるのだ。

つまり「ひとりじゃない」がより衝撃的なのは「歌が始まる瞬間」が衝撃的ではなく「歌が始まる前の演出から衝撃的」なのだ。

何を言ってるかわからないだろう、私も伝わってるか不安ではあるがそういうブログなので続ける。

 

2.歌詞がとにかくエモい。

 

「ひとりじゃない」の歌詞は「よくある街に生まれた、よくいるタイプと言われてきたボク」「キミ」で構成されている。歌詞を全て通して見ると「ボク」は「キミ」に対して一方的に想いを向けているように思える。「ふたりでいよう」「ひとつになろう」「キミのかわりになる人はいない」と言っているがそこに「キミ」がレスポンスする事は無い。では何故この「ボク」はここまで「キミ」に想いを寄せるのか。

それの答えは2番のサビ「ボクをわかってくれるキミ」という部分なのだと私は思う。

 

この歌で「ボク」の気持ちが現れているところを引用する。

"今までずっと孤独をかかえて生きてきたよ
だけどボクはキミと会えたから 会えたから
右手にやさしさを 左手に勇気を
キミに出会うまでのカナシミは強制終了!!"

私は初め違和感を覚えていた、よくある街に生まれた、よくいるタイプの人間はむしろ普通に友達が出来るのではないのか、孤独を抱える事が少ないのではないか。ここがアホだった。

「ボク」は「よくいるタイプ」と自覚しているわけではなく「言われていた」だけである。

 

人間には理性というものがあり、自分の考えを言わない、という選択をする事が出来る。サトラレでもない限りそれは全てが表には出ず、他人がその人を全て理解する訳ではない。

側から見たらよくいるタイプに見えても、やっぱり個々は別々である。他者と意見が合致する事はあってもそこへ繋がるプロセスや思いは千差万別だろう。それが個性というもので、全員が同じ道筋で同じことを思っているという事は親子でさえ存在しない。

 

「よくいるタイプのボク」の視点から見た「ボク」はよくいるタイプではないということ孤独というのはそのプロセスをわかってもらえず多数派として認識されること、 そこを「キミ」はわかってくれたわけだ。理解者に想いを寄せるのは当たり前だ。そもそも論として自信が倒錯していなければの場合だが。とにかく、その「わかってくれた」が存在の認識なのか個々への理解なのかはわからないが、回答が来ずとも「ボクをわかってくれるキミ」に「ボク」は想いを寄せているのだ。

 

さて、その感情は恐らく恋という感情なのだろうが、そこはどうもうまく飲み込めない。

この歌で恋という単語が出てくるのは一度のみ。

"よくある恋の話だよね よくあるカン違いなのかもね
だけどこれだけは言えるよ キミのかわりになる人はいない"

「よくいるタイプのボク」は自分をわかってくれた「キミ」に対して特別な感情を抱いている。そんな「ボク」がよくある恋か、それともその全て勘違いなのか、そう感じた時、たったひとつ何を思うかといえば「キミの代わりになる人はいない」という個人への尊重なのである。

これはつまり誰でもいいわけではないということ、「よくある、よくいる」という多数派には振り分けられないこと、それは恋などでは片付けられないほど純粋で清く重たい感情なのではないだろうか、エモい。最強にエモい。

 

ここで度々出てくる「セカイ」というものに目を向けたい。「セカイ」というものは文字通りWorldの事なのか、それとも別の意味合いがあるのか解読していきたい。この歌の中では2人でいれば「セカイ」は止まらず、飛び込める。

何故わざわざハリウッド俳優のように世界に飛び込む必要があるのか、それはいよいよ恋ではないだろう、恋なら相手に目を向けるべきじゃないのか、と考えたがハッとした。

 

『2人でいればセカイは止まらない』それなら『2人でいなければセカイは止まる』のか、止まるのだ。

何故なら「ボクをわかってくれたキミ」を無くせば「ボク」は再び孤独になってしまうからである。

「キミ」にわかってもらえない「ボク」は他人から見て「よくいるタイプ」という多数派でしかなくなってしまい、それは個人ではない。

人は誰かに認識されて初めて自分が生きていると感じるものだ。誰かの目から消えるということは自分が消えると同義である。よって 2人だから「セカイ」は止まらないのであって1人なら止まる。

この点から考えて「セカイ」というのは、「自分と他者の心の世界」という概念なのだと私は考える。

 

歌詞を見てみるとわかるのだが、セカイへの見方が徐々に変わっていくのがわかる。

はじめはセカイが「止まらないように」「飛び込めるように」そして自分の気持ちを深く吐露してからは「止まらない…」となりはじめに戻る。なんかエモい。

はじめに私は「キミ」は一切レスポンスを返さないと言ったが、「セカイ」を読み解くとそれは違うのかもしれない。「ボク」が飛び込めるように、と言った「セカイ」は「キミ」の「セカイ」と考えれば、そのあとの左手と右手に持った勇気と優しさの意味もわかる。勇気と優しさが他者の心の「セカイ」に飛び込むために必要だったのだ。

 

「ボク」がカナシミを強制終了させた時、「ボク」は「キミ」の「セカイ」に飛び込んでいる。だから「止まらない…」と言い切りではなかったのかもしれない。そして大サビ「ココロの声を合わせよう」に繋がり、最終的に「キミ」と「ボク」の「セカイ」は止まらなかったのである。

 

ああ…

 

あーーーーっっ🤮

 

 

夜中、駅前でいちゃついてるカップルに(二人の世界だな)と思う。そこには蔑みの目線が少し入っている、気持ち悪いとかかっこ悪いとかそういうニュアンスもある。

だけど、こんなにも美しく純粋な「2人の世界」を歌った歌もこの世にあるのだ。

それを歌ってるのがテゴマスだ、歌詞を書いているのが松尾潔だ、作曲しているのが川口大輔だ。

わかってる、そうだよ、同じく「木漏れ日メモリーズ」も最強だ。でも「ひとりじゃない」はエモすぎる。

 

3.1人では完成しない歌である

 

そもそもテゴマスが属しているNEWSというグループは「『クラスを作った時に1番目立つ人達』で構成されている」というのを何かの雑誌で読んだことがあり、これが結構印象に残っている。

 

ヒエラルキーの頂点同士を戦わせるなんて、そんな少年漫画のようなシチュエーションがあるのか。

実際9人の時には圧倒的王者がいて、やはり集団となると自然と誰かが頭1つ抜き出るものであり、4人になった際「イチゴのないショートケーキ」と言われていた過去がそれを如実に物語っている。

そして加藤くんが本当は青が好きだったけど緑を選んだエピソード、手越くんがメンバーに言わずに歌の個人レッスンをしてたエピソードを聞くと、NEWSというグループの中では少なからずそこに戦いや葛藤があったのではないかと思う。

ただヒエラルキーの頂点が同じクラスに集まったからと言って誰にでもメンバー同士でライバル意識が芽生えるけではなく、小山くんと加藤くんの目線がNEWSのファンやメディア、他グループなど外に向いていたように本人達は毎年誕生日プレゼントを渡し会うくらい仲が良かったり、所謂シンメになるパターンもある。

 

一方で「テゴマス」はどういう2人だったのか、それは端的に言えば「同じクラスなら友達にならないだろう人同士が歌が上手いという他者からの評価でユニットを組む事になった」2人である。

 

同じクラスなら友達にならないとはどういうことか、先程のエピソードにもあったように手越くんは例え絶対的王者が君臨していようとも決して諦める事をせず、自分の武器を少しでも強くするために水面下で磨いているような人で、そして増田くんは王者がいても自分は自分で明確なアイドルという職業に対する道を作り、その道を踏み外す事なく歩み続ける職人のような人である。

 

「王者に挑む人間」「そもそも王者と向き合った上で自分の道を突き進む人間」それはかなり正反対の考え方であり、この2人がタッグを組むとなるとまさに少年漫画じゃないか、熱すぎる展開だ。熱い。萌えではなくマジで燃える。

しかも「歌が上手い」というのはどういうことかそれは「声質がいい」ということであり、ユニットを組むという事は「声質の相性がいい」ということになるだろう。なるよね、なるんだ。

整形などでは唯一変えることの難しい「生まれ持った声の相性」ときたらもうこれは、これは…、運命の他に表す言葉が見つからない。

 

私は昔から「相棒」や「チーム・バチスタシリーズ」「シャーロックホームズ」などタッグものに目がない、正反対の2人が大きな組織の大きな理由で自分達の意思と反してチームを組まされる状況にとてつもないロマンを感じる人間だ。そんなわけで(自分達の意志と反してたかは不明だが)「テゴマス」にもどでかいロマンを感じている。

ここのまとめとして、ここに出てきたエピソードの全てが私の想像でないことを祈る。

 

長すぎる。でもここから語ろう。「ひとりじゃない」について。

 

まず最初のハモリは手越君が上ハモで増田くん主線。その後のAメロ。先程も書いた「よくいるタイプの僕」の部分を歌うのが手越君だ。

『いやまて君のどこがよくいるタイプなんだ…!?』と一瞬思うが、ここで「summer time」のMVに映る手越くんを観てみよう。山Pの後ろでにこにこしてる目立たないタイプの茶髪の頃の手越君がいる。

今でこそ無敵のハートのエース手越祐也だが、ヒーローがもともとは平凡な主人公だったように手越くんもそうだったのだろうと思う。だから尚更このAメロはグッとくる。

そして安定安心、高音にも低音にも定評のある職人増田貴久がBメロ、そしてサビの主線を伸びやかな歌声で歌い切る手越くんを支えるのである。

 

さて、テゴマスの曲は曲ごとに歌の役割が決まっている分、ハモリと主線が複雑に入れ替わる曲が多いのだけれど、この「ひとりじゃない」も例外ではない。

そんなわけで先程、手越くんが歌うサビの主線を支えてた増田くんも当然のように2番のサビで主線になる。その点だけで言えば「青いベンチ」も同じだ。主線を歌う方が2番で入れ変わる。しかし、「ひとりじゃない」の場合は違う。

青いベンチ」はハモリもそのまま入れ替わる。つまり主線・下ハモは固定のまま歌う人だけが逆になるのだ。

対して「ひとりじゃない」は主線が入れ替わるとハモリも上下で入れ替わる。手越くんが主線を歌えば増田くんは下になり、増田くんが主線を歌えば手越くんは上になる。…が"君がいる"の部分はハモリが固定なのでそのままそっくり入れ替わる、という複雑さである。

特にソロのサビから大サビにかけては、歌が歌えない私にとっては名人芸としか言いようがない。

この曲をテゴマスは顔色1つ変えずに、客席に目を向けてファンサをしながら、相手にも釣られず、たった一瞬のアイコンタクトのみで完璧に歌い切る。それはどのくらい練習すれば、そして、どのくらい相手を信用し、なおかつ相手に負けない自分を持っていなければならないのか、私には想像がまるでつかない。

正反対のテゴマスが生み出すユニゾンはバトルであり、その結果生まれるのがあのどちらも音をひとつも外さない、自然なまでの完璧な調和なのだ。こうして「ひとりじゃない」の衝撃はテゴマス2人で完成する。

 

まとめ

 

ほぼ4年放置して、いきなりこれは長すぎる。7000文字だぞ。ここまでたどり着いた人いるのか?正直最後の曲のハモリについては、あまり自信がない。私は音楽に精通してるわけじゃなくただのオタクなのであまり詳しくない。

一応ここは私の独壇場なので90%くらい当たり前のような顔でつらつらと偉そうに語ってはいるが、私の友人の手越担になにかの拍子で読まれたらそこに関してはなんらかの指摘が来る気がする。もしくは、ここまで読んだ優しい人に是非「ひとりじゃない」を聞いてもらって矛盾があったら指摘して欲しい。

 

テゴマスは正反対と言ったが、音楽に対する向き合い方は同じ方向を向いているのだと思う。

「ひとりじゃない」の歌詞解釈にも書いたがプロセスは違うだけで、結果は合致しているのかもしれない。

そういう部分で見ても「ひとりじゃない」はテゴマスが歌うとエモくて最高で、あんなに衝撃的なのだ。声の相性や才能や努力だけではない何かがテゴマスの曲にはある。

今回はたまたま「ひとりじゃない」だったけれど「HIGHWAY」もかなり好きだ。あれも曲だけ聴けば割と単調なのにコンサートで見る衝撃たるや。ハモリの複雑さでいえば「Over Drive」も興味深い。

今度再び衝撃を受けることがあれば、こうしてまた好き勝手にオタクらしく書いていきたい。これらは全て私の頭の中の考えなので、こういうやつもいるんだなぁ程度に見てもらえれば嬉しい。そして全人類はテゴマスを聴こう。